同志へ
私は、たくさん考えて、想像力を働かせ、物事をよく理解し、知識欲と向上心を保ち、他人を思いやって、必要に応じて一歩引いて、衝突を避けるために然るべき妥協をして、責任感をもって仕事を進め、一つ一つやり遂げ、そうやって真面目に真摯に生きる私が好きだ。
複数の可能性を考えることができ、一歩先の手を静かに打ち、他人が抱くかもしれない感情を想像し、傷つけず、不快にさせず、人様に迷惑をかけず、言わなきゃ気がすまない言葉を飲み込みつつ、しかし必要なことは言葉を選び伝える。関係するもの全体に目を配ることのできる、聡明で優しい貴方が好きだ。
美しく、清らかに、聡明でありたいと、日々心がけ試行錯誤する。しかし上手くいかず、悩み苦しむ、それでも前に進む。それが私たちだ。
私たちは、人の立場に立ち、共に思い悩み、共に喜び、涙を流すことができる。
「相手に共感しているのではなく、自分の脳内で勝手に人の感情を作り上げているだけ」という、”私は解説する側の人間です”と格好つけたうるさい文面を見たことがある。
そうかもしれない。そうかもしれないが、そう宣う人は、共感か創作かの違いを判別できておられるのか。
他人の心は分からないからこそ、経験と想像力をもって、考え悩みながら、相手に寄り添うんだよ。分からないからこそ、気遣うんだよ。
これを読む同志の皆さんは、私と同じく「もっと言葉に出して伝えてくれないと分からない」「会話しよう、話し合おう」と言われたことがあるのではないだろうか。
大丈夫だ。私たちは、きちんと言葉に出している。言葉のほかにも、表情、動作、行動、間合い、様々な表現で伝えている。
国語力や社会性のない方々が受け取れていないだけだ。
「分かりやすく伝える努力が必要だ」という主張に出会ったこともあるだろう。
そんなに気にする必要はない。
もちろん、学術的なことや仕組み、自分の考えた企画等を伝えるには分かりやすく伝えなければならない。それには、話し手の理解の深さと、整理して体系的に物事を整える力が必要になり、話し手の身になるよい機会といえる。
しかし、人間関係の中での大抵の話題については、受け取る側が高度なコミュニケーションについていけていないことが原因だ。
受け取る側の能力不足を棚にあげて、理解できないことを、話し手のせいにしているだけだ。
国語力や想像力、周りを見る力を鍛えられていない方々ということだ。
話し手のせいにして『分かりやすさ』が正義だと吠える。吠える声は大きく響くもんだから、それを真に受けてしまった幼き者たちの表現や感受性が貧しくなっていく。ハイコンテクストの美しさ、豊かさ、奥深さを理解できない奴らは、大人しく口を閉じてほしい。
「自分らしくやりたいように生きよう」「人の目を気にせずに、自分の好きなことをして生きよう」「日本人の考え方は〜で合わない」「日本の空気を読む文化は息苦しい」
このような文句も目にする。
“自分らしく”と自分で言ったり、”〇〇なのが自分らしい”と自分で決めて発信したり、正直下の品に値する。貴方らしくて素敵だね、と人から言われる言葉であって、自分でこのように言うのは、恥ずかしい行為だ。
こういった方々は、『自分勝手』を『自分らしく』と勘違いしているのかもしれない。自分勝手が許される、偉い人間だと思っているのだろうか。人間が浅く、虫酸が走る。
“和”を乱さない、人様に迷惑をかけない、人として私は結局これが大事なのだと思う。
「和を乱すなとは、自分の意見を押し殺せということか」という浅く短絡的な考えしか持ち合わせていない方々には、残念だが寂しくそのまま吠えておいてもらうしかない。
他人の我慢によって成り立つ個性など、守るべき個性ではない。ただの迷惑だ。
同志よ
吠えるだけの、口だけの人間より、私たちのほうが幸せだ。
簡単に怒って、簡単に不満を口にして、簡単に人にお願いをして負担をかける。深く長く考え続ける知性なく、ただ脳への快楽の刺激を得るだけの娯楽に時間を溶かし、笑っている人たちがいる。
一瞬、そんな人たちのほうが、幸せそうに見えるときがあるかもしれない。
そんなわけあるはずがない。
バカに生まれたほうが、苦しみ少なく、簡単に幸せを感じて生きていけたかもしれないなんて、そんな易きに流れてはいけない。易きは即ち充実した幸福ではない。
そんな低次元の人間なんか、私は御免だ。
私たちは、世の中にある美しさを知ることができる。
人生を通して、高みを目指していける。
同志よ
私たちは、ノイズの多いこの世の中で、吠えるだけの人間に惑わされずに、高い知性と正常な理性とともに、人を思いやり、美しく清らかに、視座高く歩んでいこうではないか。


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